必然と夢の間

 大きな大きな白い金平糖。高原の小屋の庭が雹でみるみる真白になって、屋根に載った波板に穴を開けていった週の終わり。東京がめずらしく涼しく、曇り空だった八月最後の週末、建築の展覧会を二つ続けて観た。土曜日の天王洲アイルで「波板と珊瑚礁 建築を遠くに投げる八の実践」(WHAT MUSEUM建築倉庫)。日曜の赤坂で「方丈記に学ぶ」(21_21 DESIGN SIGHT)。

 二つの展覧会は、どちらも災害が日常化しゆく今の状況を前提とし、偶然にも同数の八つのプランを提案するという構成で組み立てられている。ただし「波板と珊瑚礁」展はどこか彼方へと、「方丈記に学ぶ」展はむしろ手元のほうから、建築、都市社会、生きるありようを探知し、編み直そうとする。

 都市の逃れがたい再開発的変貌とは異なる建築的思索に触れたいという思いに、八組の若い建築家たちの展示は、ポストモダン・レトロの雰囲気を漂わせてメロウにも詩的にも魅せてくれる。建築家、アーティスト、デザイナーによる八つの「庵」の展示は、古典文学をユーモアをもって生き返らせて、歴史的に実践的に応えてくれる。

 両展には「カメラ・オブスクラ」につながる構想や幾何学的構成において通底する展示がみられた。とりわけ田部井美奈による暗室の中の「庵」は、この上なく現代的な抽象のモビールが美しく、もしもうひとつの展覧会に展示されていたとしても不思議ではなかった。必然と夢の間で揺らいでいた。

Mina Tabei, Rotating Landscapes.

Learning from 'Hōjōki': Tiny Architecture Reweaves Life, 21_21 DESIGN SIGHT, Tokyo, 2026

 鴨長明の庵の〈小ささ〉のみならず、移動可能性と、素材を含むありようの〈軽快さ〉に着目し展開した案(正田智樹+竹中工務店+beig《蓑庵》、山口晃の《螺庵》とドローイング、江頭慎によるロンドンでの「カメラ方丈庵」活動)の中にお邪魔したり、ぐるっとまわって眺めては、前日見たばかりのGROUPによる《都市と眠り》のディテール(マクドナルドまたはカフェのトレイ上の、実物大の模型)を思い出したり(映像によって挟まれる、ドイツのメトロポリスにおける「自由で匿名的な都市生活者を前提と」する、垂直方向への空間開発をめぐる歴史的考察。眠りという生理現象をも「設計の対象」とすることへのインタビューでの言及)。

Left: GROUP, City Asleep  Right: Toshiki Hirano, A Hakoniwa Plan for Tokyo (detail)

Corrugated/Coral—Eight Practices to Project Architecture Afar, What Museum, Tokyo, 2026

 WHAT MUSEUMの倉庫空間とすこぶる相性の良い、DOMINO ARCHITECTSによる《PULP FICTION(jet way)》は、空港の搭乗橋を繋いだ、ところどころ蛇腹のリミナルスペースで、本当に〈本当にありそうな〉モノクロームの架空の円環とは、模型の模像のこと。

平野利樹による、白い砂浜に陳ぶ玩具の山、🦞のオブジェとBarbieを縁の下で支えるKen。いつか観たパフォーマンスの記憶を呼び醒ます、その横長に伸びる台のスケール感からすると、《東京箱庭計画》には《東京都市計画1960》とともに《孵化過程》へのオマージュがこめられているのかもしれなかった。

 「方丈記に学ぶ展」は、関連年表も資料展示も読みどころに満ち、「ことばを持って帰ってほしい」という企画者である建築家の意図も効いていて、できれば図録としても持ち帰りたかった。21_21をあとにするとき、むかし京都の下鴨神社で生垣の向こうに方丈庵の復元を遠目に眺めたときよりも、ずっと近くに庵が実感された。そしてKindleで読み返す『方丈記』の自然描写が、21世紀のミニマリストの撮っていそうな、映(ばえ)る四季の折々かのように視えてきてしまう。

 今日いっそう必然的な「小さな建築」の系譜と、あらためてその語彙とあえて違う感性と回路で建築の夢を映しだす模型的試み。

八+八の建築的構想を眺め、十六のプランの記憶が交互に映像的にたちのぼってくる中(都市的無意識と倫理的意識とに働きかけてくる)あたらしい遠近双眼の眼鏡をかけ直した気分で迎える九月。

Next
Next

海浜図と海景